大河ドラマ「麒麟がくる」で再評価されている明智光秀。
ドラマにも第一話から登場する光秀の腹心、藤田伝五(伝吾)行政について、今の滋賀県守山市を拠点として活動していたのではないかという古文書が新たに確認されました。
藤田伝五については、光秀同様前半生は謎ですが、『信長公記』や『明智軍記』に登場する人物で、光秀が信長を討つ際に相談したとされる五人の家老のうちのひとりとされています。
山崎の戦いで負傷し、切腹したとされています。
報道によると、守山市在住の藤田家に伝わっていた家系図を滋賀県教委文化財保護課が確認したところ、家系図に名前があり、同時に兄弟と見られる伝三行久が山崎の戦いで戦死したことも書かれていたそうです。
伝五については、山崎の戦いの翌日に自害したと書かれています。
藤田家は元々、近江の守護大名佐々木六角氏に仕えた一族です。
藤田一族の菩提寺である守山市の観音寺で「行政居士」「行久居士」として、ふたりが供養されていたことも判明しました。
観音寺は「天台真盛宗」の寺らしいので、光秀一族の墓がある西教寺と同じ宗派ですね。
伝五、伝三の父と見られる藤田貞長が西教寺に石塔を奉納していた記録もあるようです。
ただ、藤田家の当主の通字が「貞」であることから、親子関係については断定できないと見る向きもあるようです。
しかし、謀反人として扱われたはずの藤田伝五を家系図に組み入れるのだから、血縁関係が深いと見て間違いないとも見られています。
表立って供養できないので、隠れて弔ったのではないかとも推測されています。
さらに光秀が戦死した部下たち18人を供養するために西教寺に米を寄進したという逸話も知られていますが、このときの戦死者の中に「藤田伝七」という人物がいたようで、おそらく伝五たちの兄弟だろうと推測されています。
15番目に書かれているらしいので、地位は高くなかったと見られているようです。
また、家系図に伝七の名前はないそうです。
それについては、光秀が近江に進出したあたりから、伝五などのツテで取り上げられたのではないかとも推測されています。
大河ドラマが始まると、いろいろと史料が発見されますね。
ドラマでは藤田伝五は始めから明智氏に仕えていたような形となっていますが、もしかすると、近江進出後に仕えたのかもしれません。
また、光秀自身が近江の国出身という説もあります。
さらには光秀自身も六角氏に仕えていたという説もあります。
今後も多くの発見がされて、謎が解けて行くといいですね。
2020.02.25訂正
観音寺の宗派を「天台盛宗」と書いていましたが、正しくは「天台真盛宗」であるとご指摘をいただきました。
訂正させていただきます。
コメント
こちらの記事に掲載されています観音寺の住職です。早速ですが、宗派の表記を、「天台盛宗」から正しくは「天台真盛宗」にご訂正いただきますようお願い申し上げます。先日の速野会館での「ふるさと紹介のつどい」にご参加いただいた方でしょうか。何かの資料をご覧下さってましてそれを元に記載されてましたら、その資料も間違いの可能性があります。何卒ご対応くださいますよう、宜しくお願いいたします。
観音寺住職 篠原様
ご指摘いただきありがとうございます。
また、当ブログをご覧になっていただきありがとうございます。
私はつどいに参加したものではなく、新聞の地域版を見て、記事を書きました。
おそらく、私の確認ミスだと思われます。
失礼いたしました。