滋賀県大津市にある聖衆来迎寺にて、仏画の裏から明智光秀の妻、煕子の戒名が見つかったという報道がありました。
聖衆来迎寺は一説によると、坂本城の一部が移築されたと伝わる明智光秀と関連のある寺です。
そこにあった仏画「涅槃図」の裏に煕子の戒名である「福月真祐大姉」という文字が見つかったということです。
この仏画は1581年に寺へ寄進されたもので、これにより、妻の煕子が本能寺の変より前に亡くなっていることが証明できるのではないかと見られています。
明智光秀は前半生に謎が多い人物ですが、妻の煕子も生没年さえ、はっきりしない人物です。
美濃国の豪族、妻木氏の娘とされていますが、煕子という名前さえ本当なのかどうかわかっていません。
貧しい時期、髪を売って夫を支えたとか、結婚前に疱瘡にかかりアバタができたものの、光秀は気にしないといって妻に娶ったなどというエピソードが有名です。
細川忠興に嫁いた娘のガラシャも有名です。
一応、生年は1530年が有力で、没年は1576年が有力です。
病に倒れた光秀の看病をしていて、光秀は助かったものの、煕子自身は疲労から亡くなったとされています。
ただ、一部の文献に坂本城落城の際、煕子がそこにいたと記されているため、謎となっていました。
坂本城には光秀の娘たちが何人かいたため、それと混同しているのではないかと言われてはいますが。
今回の発見によって、1576年死亡説が俄然有力となったのではないでしょうか。
しかし、毎回のことですが、大河ドラマで取り上げられる年には、いろいろな発見がありますね。
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