明智秀満が本能寺の変後、瀬田川で一戦していた?古文書見つかる。

書評・その他

古文書発見

本能寺の変後、明智光秀の家老、明智秀満が安土城を占領するため、近江に進軍しました。
ところが、近江瀬田の土豪、山岡景隆が瀬田川の橋(瀬田の唐橋)を焼き、進軍が3日ほど遅れた言われています。
これは「信長公記」にも書かれている有名な話です。
このたび、山岡氏の一族が住職を務めたこともあり、関連の深い石山寺の塔頭で、古文書が発見されました。
そこには、山岡氏と明智秀満の軍勢との間で、一戦を交えていたことが書かれていました。

湖水渡り伝説につながる?

文書は瀬田川の橋を焼いた山岡景隆の息子、山岡景以が1591年に記した家の由緒書きを、子孫が江戸時代に写したものであるようです。
文書には本能寺の変の当日、山岡氏が瀬田川の橋を焼き、そのため、船で川を渡ろうとした明智秀満勢の軍勢を撃退したと書かれているとか。
明智秀満の前線部隊の家臣が斬られたようです。
これまで、瀬田川の橋が焼かれ、進軍が遅れたことは有名でした。
しかし、近江侵攻部隊を秀満が率いていたのか、ここで一戦を交えたかどうかは不明とされていました。
ですが、この発見で、一戦交えたことは確実かと見られます。
明智秀満といえば、後に安土城から坂本城に戻る際、馬に乗ったまま琵琶湖を横断したという「明智左馬之助の湖水渡り」が有名です。
この湖水渡り伝説はもしかしたら、この一戦がモデルになっているのかもしれませんね。

その他の記述

また、文書には家康が伊賀越えをして堺から三河に戻った件についても記述があり、山岡景隆の弟が付き添ったという記述もあるようです。
家康は後に甲賀信楽の豪族、多羅尾氏の館にも立ち寄っています。
それぞれの家が護衛をつければ、野盗の類は防げたとも思われ、家康最大のピンチと呼ばれた神君伊賀越えは案外苦境ではなかったのかもしれませんね。

この資料、先祖の武功を少し称える文書に見えなくもありませんが、由来から信頼性の高い資料と見られ、歴史書が少し書き換えられそうです。
本当に、大河ドラマの放映される年はいろいろと資料が発見されますね。

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